競馬 ネットの自由な発想

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彼はまた、自分の馬をケンタッキーダービーにも出さなかった。 ひとつには″西部″のトラックを蔑視していたため、またひとつには、5月初めに2000メートルという過酷な距離を走らせるのはあまりにも時期尚早だと考えていたからだ。
1930年、Lはこの馬をわずか3歳で引退させた。 Mはトータルで211のレースを走ったにすぎず。
うち20レースに勝利した。 相手にした馬もわずかに48頭だけだった。
だがいずれこの馬に極端に高い斤量が課されるのは必至で、Lはそうした事態になるのを嫌ったのである。 Mのおかげで世界的に有名になったLはしかし、T・Hが報道陣を愛するのとは正反対に、彼らを嫌悪した。
マスコミにはLに意趣返しをする者もいたが、地球上でもっとも速く、もっとも注目すべき馬をLが数頭所有しているという事実により、両者の関係は小康状態を保っていた。 記者をふくむ一群の人々の前でこの馬主が立ち上がり、こと馬に関する限り、マスコミはたったふたつのことしか知らないといい放ったこともある。

「前に立つと噛まれ、後ろに立つと蹴られる」。 この発言は、両者の関係をなおのこと悪化させた。
Mはこの馬主にとって一種のフランチャイズとなり、チェーン展開をするかのように種牡馬として、才能に恵まれた競走馬を長年にわたって生きつづけた。 マンノウォーの仔は次々にウィナーズサークルに立ち、おかげでLは競馬界でもっともひんぱんに紙面を飾る男となった。
だがMの仔たちは、多くがその世代を代表する馬になったものの、いずれも父とは比べものにならなかった。 そんな1934年の春、ホースマンがLの生産牧場のフェンスに集まりはじめた。
彼らはパドックをのぞきこみ、燃える唄石が誰かの家の裏庭に落ちた時のような、恐怖の念に満ちたざわめきを立てた。 ブラッシュアップという王族のごとぎ血統の牝馬が、マンノウォーの息子、ほぼ漆黒に近い仔馬を産んだのだ。
彼らはその馬から目を離すことができなかった。 とにかく見栄えのする馬だった。

じっと立ち止まっているときも、この馬は光輝いていた。 精級でよど承のないエレガンスを絵に描いたようで、軽く、細く、俊敏だった.馬はまるで烏のように動いた。
ひらひらと舞い、矢のように突進し、またひらひら舞った。 みな惚けたように仔馬を見つづけた。
この馬が走りをマスターしたら、Mのことなど忘れられてしまうだろう、といいだす者もいた。

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